13. 宮森初等学校時代
(1)学校の様子
宮森初等学校の校舎は軍用の三角テントで、机腰掛なし、黒板はベニヤ板に黒いペンキを塗ったもの、チョークは軍隊用の直径3センチもある太いもの、ノートはセメント袋を解いたもの、鉛筆はアメリカのゴミ捨て場から拾ってきたもの、など今では考えられないような状況であった。ただ、楽しみは毎週1回位あるお菓子の配給であった。その日はどんな事があっても学校に行った。お菓子はチョコレートが多かったように思う。子どもたちはお菓子の配給を待ちかねて、お菓子の配給の歌まで作って大きな声で歌っていた。
青空仰いで 大きな呼吸
みんなそろって この胸張って
いつも いつも
クァーシヌ配給 マチカンティー
(お菓子の配給待ち望んでいる)
(2)上級生をナイフで切りつける事件
当時は学校に机が無いので自分で座卓を作りそれを持って登校した。私はテックス(ボード)を上板にした座卓を作った。軽くて持ちやすいから。その時は登校は集団登校だったので、机を置いてみんなの集まるのを待っていた。その時上級生の班長が私の机の角に座ってしまったから角がおれてしまった。
怒った私は彼に文句を言ったが取り合ってくれない。それで喧嘩をしかけたが体力では勝てそうに無いので、脅かすつもりでナイフを出して向かった。相手は馬鹿にして私のナイフを持っている腕を捕まえたので、ちょっと手首を捻ったら相手の手首を切ってしまった。相手は泣いて家に帰ったが私は壊れた机を抱えて学校に逃げた。
何時間か過ぎて先生に呼ばれさんざん油を絞られた。当時は軍隊帰りの先生が多く叩き方も派手だった。左手で顎をつかまえて右手でビンタをピシャリと殴る。倒れたらまた反対の手で同じようにビンタを食らわす。そして、皆が帰った後もテントの中に跪きさせられた。しかし、先生は忘れたのか何時までたっても来てくれない。多分罰して座らせたことを忘れて帰ってしまったのだろう。
それでもそのまま座っていたら、テントの入り口から顔をのぞかせた人がいる。初めは薄暗い逆光でよく見えなかったが、山で別れたっきりの母ではないか。それまで我慢していた心の緊張がいっぺんに吹っ切れて、ワッと大泣きをした。先生はやはり帰ってしまっていた。
人の縁とは不思議なもので、その日にかぎって息子との面会のために米憲兵隊へ交渉して遠い漢那の収容所から石川収容所まで私に逢いに来たのだ。何時までたっても学校から帰らない私を学校まで探しに来たのだ。終戦直後の混乱期、収容所から収容所間の移動が困難な時期に、しかも私が事件を起こしてピンチの時、訪ねてきた母の深い愛情と親子の強い絆、不思議な縁(えにし)を感じたひと時であった。後で母は上級生の家に行き謝ったそうだ。翌日母は漢那の収容所に帰って行った。漢那には年を取った姑と四人の弟妹いとこのS子がいるのだ。
(3)父の消息を探す
その頃、新興山(シンコウヤマグヮー)の麓で、屋嘉捕虜収容所に収容されている、兵隊や防衛隊の生き残りの氏名発表があり、私はその発表の度に父の消息が得られないかと聞きに行った。しかし、何回行っても父の名前が呼ばれる事はなかった。一人寂しく帰ったものである。
(4) もの探しに行く
その頃私達は親戚のM婆さんとも一緒に暮らしていた。たまには缶詰一個を持って物探しに行く事があった。朝暗いうちに起きて鉄条網を潜り石川以外の土地にある米軍のゴミ捨て場に行ったり、米軍キャンプの近くをうろついたりするのである。最初のうちはごく近い米軍のゴミ捨て場(昆布集落)に行っていたが、だんだん遠くの米軍キャンプまで行くようになった。一番遠くでは、石川から15キロ~16キロも離れた読谷の都屋(楚辺?)の米軍部隊まで行った事がある。ゴミ捨て場では主に缶詰類、紙類(ノートにする)、鉛筆、残飯として捨てた肉類、衣類などを拾ってくるのである。
キャンプをうろついて米人の隙を見て毛布、シーツ類、蓄音機など盗んでくる人もいた。私は盗みが下手で一度炊事場に入って砂糖袋を担いできたのに、後で開けてみたら塩だった。残念!骨折り損・・・・。
お陰で学用品は誰よりも豊富に使えた。しかし、そんなものを持って帰っても生活の足しにならないと、M婆さんに役立たずと叱られたり叩かれたりした。M婆さん叩くときは決まって鞭で腰を叩いた。私は予防策として上着の下にノートを巻いていたので痛くなかった。M婆さん、いくら叩いても痛がらないので、気味が悪くなったのだろう終いには叩かなくなった。
都屋の米軍キャンプで泊国民学校で私を殴った子の一人を見かけたが知らん顔をした。彼も何処かの収容所にいて物あさりに来ていたのだろう。残りの子は対馬丸に乗ったのだろう。その後会う事はなかった。
14. 家族が一緒に暮らせるようになる。浮浪者時代終わる
(1)昭和21年8月山田村に帰る事が許された
各地の収容所から自分の村に帰ってきた。当然母、祖母、弟妹、私も村に帰りヌンドゥンチの家族3名と一緒に生活するようになる。9名の大家族である。(祖母は叔父に引き取られた)
(2)蘇鉄地獄
(写真 ソテツ)
山田集落に帰ってからの一年間の食料事情は大変なものであった。何しろ山田に移動するまでには畑の植え付けとか田んぼの整備などもなされてなかったので、配給になる食料だけでは全然足りなかった。それで主食が蘇鉄の時が多かった。蘇鉄といっても蘇鉄の澱粉は量が少ないので、搾りかすを食べるのである。大きな鍋に米1合に搾りかす10位の割合に、ツワブキの葉、桑の葉、その他山菜、小さなサツマイモを9人分9個を入れ鯖缶1個をだしにしてかき混ぜ、雑炊にして食べるのである。それでも腹いっぱい食べるのであるが栄養的には不十分で、あの頃の子どもたちは手足が細くお腹ばかりが大きい、ベトナムやアフガン戦争当時の子どもたちに見られる写真と同じ体形であった。
(写真 ソテツの幹を削って出た搾りかす)
又、当時眞栄田岬の近くに米軍の塵捨て場があった。そこによく残飯を持って来ては捨てていた。その残飯の中から肉片を選び出して食べたり、鼠、蛙なども焼いて食べたりしていた。当然母には内緒であった。
(3)山田に移動してからの私たちの遊びの中から
その頃の遊びとして、男の子は主に野球をしていた。グローブが無かったのでグローブのある子は持ってきてもらい、足りないものはアメリカのテントで作って遊んでいた。キャッチミットなどもかなり上手に作ってあり、ボールを受けても痛くなかった。ボールはソフトボールを利用、バットはソフトボール用のバット又は棒切れを使用した。私は、K君とバッテリーを組み毎日のように練習していた。
その頃、K校長先生とU先生のキャッチボールを見て非常に憧れたものである。ボールがビュンビュン風を切って飛ぶさまは、我々生徒にとっては珍しく、早くあんな風に成りたいものだと羨ましく思いながら見ていたものである。又、U先生は私達6年生の体育も受け持っていたので、体育の時間が来るのを何時も待ちかねていた。
しかし、野球などは真面目な遊びで、手榴弾遊びや、鉄砲造り、カービン銃の弾頭、ピストルの弾頭などでストラップを作ってズボンのポケットに入れ、飾りとして持ち歩いていた。
カービン銃、ピストルの弾頭の取り出しストラップにする当時の方法としては、土の中に弾を埋め、周囲を砂で囲い信管に釘を立て、上から板などで叩くと、薬莢が破裂するも弾頭は残る。その弾頭を針金の輪の中に入れて、下から熱を加えると弾頭の中の鉛が溶け出す。その鉛の中に、紐が通せるように作った輪金を入れて冷やすと、恰好の良いストラップになる。これを磨いて鎖などに通してズボンのバンド通しシンに結んでポケットに入れていた。
但し、小銃弾は爆発させると薬莢は破裂するが、弾頭は土の中にめり込み、取り出すことは出来なかった。機関銃の弾は危ないので使用しなかった。子どもなりに危険なことは避けていたようである。
手榴弾遊びは、信管を抜いて崖の下に投げて爆発をさせる。大人はそのようにして魚を採っている人もいたようだ。鉄砲を作って猪を撃ちに行くと言う子もいた。鉄パイプの穴に木材を打ち込んでカービン銃の弾が入るように穴をあけ、信管に釘の先が当たるようにゴムで仕掛け を作り鉄砲にする。これは実際に弾が飛び出し極めて危ないものであった。又、木材の部分が破裂し顔面に刺さったとの話も聞いたことがある。
今考えると大変な遊びをしたもので、当時は手榴弾、鉄砲の弾、砲弾などがゴロゴロ転がっている時代であった。
(写真 「諸見民芸館」提供)
(5)山田初等学校の様子
校舎は戦前の校舎が一棟残っていたが、米軍が車の修理工場として使用した後で、床もなければ窓ガラスも無い土間の教室であった。しかし此の一棟が職員室と4教室になる(その頃校長住宅も教室として利用していた)。其の他米軍の残したコンセットが一棟、高巌山(タカシー)にトゥーバイフォーで造られた別荘みたいなのが一棟、校区民が建てた茅葺の教室が三棟、運動場を挟んで反対側(東側)に米軍の残した小屋が一棟で、確か10教室だったように覚えている。又幼稚園の園舎も字民が建てたように思う。
(写真 昭和22年頃の旧校舎修理中・山田小学校百周年記念誌より)
机・腰掛に至っては米軍の使い古しの板材を使って、下図のようにベンチ方式の物や、埋め込み式の机腰掛を校区の父親達が奉仕作業で作ったものであった。
(ベンチ式・高低で机腰掛)
(埋め込み式)
私は城前校で嘘ついたまま進級し6年生になっていた。山田校に来たら同級生は皆7年生である。少し恥ずかしい気持ちはあったが、そのまま6年生として授業を受けていた。やはり一年下がることにより体力的にも勝っていたし、成績もまあまあであった。それに、体育は憧れているU先生、受け持ちはUM先生。UM先生の授業はとても良く解るし、可愛がられてもいたので先生が好きで、7年生に上がろうなどとは思わなかった。
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