9. 米兵の態度がだんだん険悪になる
(1)二人の日本兵殺される
ある日例によって火種を貰いに来る途中、男の子がブワ~ンとしたものを踏んづけた。飛び越えて見たら人間の死体である。吃驚してワ~ッと叫んで後から来る人に知らせると、おばさんたちは驚いて後戻りし、今来た道を自分の隠れ家へと逃げ帰ってしまった。男の子は後戻りできずに我々の所にすっ飛んできて状況を知らせた。若い人たちが男の子を連れて確認に行き、死体を道の横に片付けてきた。そして男の子を彼らの隠れ場所まで送っていった。
死体の状況からして、山の上から降りて来る日本兵と下から来る米兵がその山道の角っこでぶっつかって、日本兵が撃たれたようであると片付けに行った人が話していた。しかも日本兵は二人殺されていたとのことであった。
【二人の日本兵が殺された所】
上が左にカーブしていて、上下から来ると互いの姿が見えない。(右下がフチサと言われている谷底)
それから別のグループが沢山の家族の中から四十台位の兄弟二人を引き出し、別の場所で射殺されたとの事が伝わってきた。我々の所にもその様な若者が6~7名も居ったので、益々警戒するようになった。彼等は昼は我々と行動を共にせず、彼等だけ米兵に見付らない様な場所を探して隠れていた。しかし、夜は合流して一緒に生活をしていた。
(2)母との再会
5月のはじめ頃だっただろうか?母が他の同じ壕に隠れていた人たちと連れだって、収容所から山の避難小屋に荷物を取りに来た事がある。米憲兵隊に交渉して憲兵ともども・・・
その時、私は山でどのようにしてその事を知ったか定かでないが、母達がトラックに荷物を積み込む為、山からトラックまでを往復している間、3ヶ月ぐらいになっていた妹をオンブして子守をしていた。憲兵に見付らないように・・・妹は「ンクー ンクー」と私があやすとにこにこ笑って「ングーングー」と答えていた。その時私は母に付いて収容所に行きたくなった。しかし、母は最期の荷物を運び終わって帰る時、「この世の中どちらが助かるか知れないから、あなたは山に残りなさい」と妹を引き取りトラックに乗り帰って行った。母は非常に辛かったと思うが私もその時は涙を流していた。夜になるとこっそり泣いた。それからは昼の間、恩納岳を眺めてはその麓(金武村)に母や家族が住んでいるだろうと思って涙する事もあった。
今思うとすごく強い母だったように思う。その事は戦後の厳しい時代にも関わらず姑の面倒を見ながら、5名の子どもを育て上げた事でも証明されるであろう。
(3)父親を殺された一家
ある日、木の上で見張りをしていたら、谷底(フチサ)の方でパシャパシャと木の葉で何かを叩いているような音がする。注意して見ていると日本人らしい人と米兵らしい人の声がして何やら騒いでいる。「捕まった!」と直感した。暫らくしてパンパンパンと銃声がして静かになった。米兵は帰って行くようである。それから10分も経っただろうか、女の子二人とお爺さんらしい三人が私たちのいる所へ上がって来た。お姉さんは私と同じ6年生、妹は8歳、年寄りの人はそのお爺さんという一家だった。お爺さんの話では、お父さんと一家四人で国頭から読谷へ行く予定で此処まで来たが、昼は歩けないので、ここの茂みに隠れていたが、米兵に見つかりお父さんは射殺されたとの事。その際、姉さんとお爺さんは後ろ向きにさせ、八歳の妹の目の前でお父さんを殺したとの事、誠に残酷な事をするアメリカ兵もいるものだと恐ろしくなった。翌日その一家は何処かへ出て行った。その谷底は米兵がいつも通る所で地元の人は近づかないが、事情を知らない他の地域の人たちがよく捕まって殺されていた。
(4)恐ろしい目に遭う
その頃、アメリカ兵の行動は決まっていた。昼は山狩りをしているが夕方帰り際になると、山の頂上に設置した電波探知機のところから、機関銃や小銃を周囲の麓に向かって一斉射撃をするのである。それに呼応して山狩りをしている米兵も茂みや暗がりに自分たちの持っている小銃や自動小銃を撃ちまくって帰るのである。我々はその事を「ウワイディップー(終わりの鉄砲)」と呼んでいた。それで米兵の一日が終わり帰るので、我々の行動も自由になる訳だ。
ところがその日は違っていた。ウワイディップーを聞いて山から下りて避難小屋の前に差し掛かったとき、私がチラッと米兵を見つけた。「アメリカードー(アメリカ兵だよ)」とお婆ちゃんに知らせたが、お婆ちゃんに「シカーグァー(臆病者)」と叱られそのまま米兵の待ち構えている所に入り込んでしまった。もう逃げる訳にいかないから彼らの言う「ダマレダマレ、スワレスワレ」と言われるままに4名(お婆ちゃん、従兄、M爺ちゃん、私)一塊になって座った。
我々は自分たちの事よりあの山奥に隠れている若者たちが帰って来はしないかと心配した。(後で其の事に付いて話したら、4名とも同じ考えであった)。彼等は捕まれば確実に殺される。考えると恐ろしくなり両膝を抱いてぶるぶる震えていた。
心配をよそにその日の炊事当番であったS兄さんが懐からタオルを出しながら「ンメーサイ ンメーサイ(お婆さん お婆さん)」といいながら、懐から手拭いを取り出し避難小屋の中の針金にタオルを架けようとしたところ、中に隠れていた米兵が「ダマレ ダマレ」と言って彼のお腹に自動小銃を突きつけた。流石若者である、パット身を翻して横道へ飛び込み逃げていった。パラパラパラと自動小銃が火を吹いた。そこは丁度土手に隠れるような場所だったので、私たちから見ても当たらなかったと思われた。米兵は少し追いかけたがそこは暗闇である。すぐに引き返してきた。私たちは少しほっとした。何故なら銃の音を聞いて他の若者はもう此処には近づかないだろう。後の話であるがS兄さん「ダマレ ダマレ」と引き金にかけていた手を離して手招きをした隙にパッと逃げ出したと話していた。
座っていたM爺さん銃の音に驚いて米兵に近づき、両手を合わせて拝むように「私は年も60近くなっています、どうか命だけは助けて下さい」と方言で言いながら米兵ににじり寄って行った。米兵は、「何!」と訝しげに銃を彼に向けたのでお爺さん尚吃驚、「ワッターヤ ヒンギーンドー(私は逃げるよ)」と奇妙な声を出して「オジー ヒンギランケー(お爺ちゃん逃げるな)」と誰かが叫んだが、着物を翻してふんどしを見せながら、トントンと茂みの中へ逃げていった。 しかし、年寄りと判っているので撃つことは無かった。みなホッとした。
ところが、銃声を聞いて若者は近づかないと思っていたのに、薪当番であるE叔父さんK叔父さんが薪を担いで入ってきたのである。先頭のE叔父さんは、すぐ目の前の米兵を見つけたが其のまま私たちの中に入って座った。後ろのK叔父さんは薪を静かに下ろしオシッコをする振りをして後ろに歩き出した。その時である、茂みに隠れていた米兵がパンパンパンとカービン銃を撃った。「ウウウ・・」と、うめき声を出して藪の中に倒れたと思った。米兵も同じ考えだったと見えて駆け寄って行ったが居ないのである。電灯を照らして血の後を付けて行ったがすぐに引き返してきた。彼らだって怖いのである。夜だから何時日本兵の攻撃を受けるか判らない。それから、三名とも我々に銃を向け後ずさりしながら帰って行った。そのとき座っていた我々は殺されると思ってパッと蜘蛛の子を散らすように茂みの中へ逃げていった。
茂みに隠れていたらあまりの恐ろしさに、お腹が「ググゥッ ググゥッ」と鳴り出したので、聞こえはしないかとお腹を押さえたが止まないのである。そのうちにザザッザザッと人の気配がしたので米兵が帰ってきたのかと思い心配していたが、「ミノル ミノル」と従兄の声だったので安心して出て行った。こんな恐ろしい思いは二度としたくないものだ。
さっき撃たれたと思ったK叔父さんはやはり肩を撃たれて山の上まで逃げて行ったが、力尽きて倒れているところを若い人たちに助けられて避難小屋に連れて来られた。
10. 石川難民収容所へ
(1) 米兵の態度険悪になる
これまで見たように、米兵の態度がだんだん険悪になってきた。それで散らばって隠れていた避難民は集まって話し合った。このまま山に隠れていたら危ないので、石川の難民収容所に行く事に話が決まった。
ところが、全員で歩いていくと途中危ない。若い女性や若い男性もいる。そこで年を取ったEお爺さんと小さな子どもを代表として石川へ送る事にした。子どもといっても私より一つ年上で、その代わり私より体の小さいT男が選ばれた。この二人、むしろを丸めて肩に担ぎ、勇敢にも真っ昼間今の58号線を比屋根崎から仲泊を経て山道を通り石川まで行き、示し合わせた通りの手はずで助けるよう頼んだのである。
その間、山の人たちは決められた日に大きな洞窟(クラシンガマ)に集まり、洞窟の入り口や通路の足跡を消し、助けが来るのを眠ったりして待っていた。
お昼頃になってやっと洞窟の入り口で助けに来た人の合図があり、ぞろぞろと出て行った。洞窟から出ると何時も山狩りをしているらしい三人の米兵が近くで銃を構えて見ていた。私はその前を通りながら何となく気持ちよい感じがした。「それ見ろ!お前たちには捕まらなかったぞ!」と。トラックに乗ってから若い人が話していた。みんなの一番後から若者たちが出ていくと、米兵は凄く緊張して改めて銃を構えなおしたらしい。憲兵が見守っていたが怖かったと。
トラックに乗せられ石川に行く途中、読谷飛行場の方角から黒煙が立ちのぼっていた。後で聞いた話だがその日、日本の飛行機が読谷飛行場に胴体着陸して攻撃し、米軍機に多大な損害を与えるも全員射殺されたとの事。後にその模様を写した写真が見つかった。水の江拓治氏の「沖縄戦場」によると、義烈空挺隊が強制着陸した日が5月24日午後10時30分頃とあり、米軍の記録では米軍機26機が破壊され、更にドラム缶600本の集積所二箇所が爆破され炎上、70,000ガロンの航空機用燃料が消失したとある。従って、山を下りる時トラックの上で見た黒煙の状態からして、私たちが山を下りたのは5月25日であると思われる。
(写真 沖縄県公文書館より 【胴体着陸した米軍機】)
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