戦中・戦後の子どものオーラルヒストリー
仲本實先生のオーラルヒストリー

11. 石川難民収容所と終戦

(1)石川難民収容所の状態

 貧しいテントの中に沢山の人が寝泊りしていた。毎日のように多くの死人が出て、石川村はずれの山の中に埋められていた。(老人子どもが多かった)。マラリアが蔓延し殆んどの人がマラリアに罹った。そして多くの人が死んだ。幸い私はマラリアに罹らなかった。
 尚、トラコーマだろうか目が赤く腫れる病気が多かった。私もその眼病に罹ったが米軍が造ったテントの病院が在り、米軍の医師や沖縄人の看護婦が居て毎日診察治療をしてもらった。
 時々収容所を抜け出しものあさりに行ったりもした。
   

下原にあった収容所
     (写真 沖縄県公文書館より 【収容所風景】

(2)学校の始まり

 ある日、学校の先生が生徒をかり集めている。逃げる子どもたち、先生に付いて行く子ども様々であった。私も一度は逃げたが、先生に付いていってみる事にする。学校では学年氏名などを聞きクラス編成をしていた。私は正直に答えるのが嫌で、5年生と嘘を言った。(本当は6年生)。それには私なりの理由があった。第一に一つ年下の同級生なら、喧嘩しても強いだろう。第二に成績も良いだろう。第三にいかにも尤もらしい理由であるが、5年生の時は殆んど勉強らしい事をやってない。後で親に説明できるのでは?と自分勝手な行動であった。多分昭和20年7月の初め頃ではなかったか。

   城前小学校
     (写真 【城前小学校】)

(3)終戦の日を知らない

 ある日、授業中にススキで出来た教室の仕切りから隣の教室の授業を覗いたら、先生が小さな声で「日本は戦争に負けたよ」と言っていた。それを聞いてその先生が憎らしく思えて仕方がなかった。それは時期からして沖縄戦終結の事で終戦の事ではなかったように思う。しかし、終戦の事はその後も誰からも聞いた覚えはない。山田初等学校に行くまでは。
 後の話になるがその先生、山田初等学校の教頭先生になり赴任してきた。色々とご指導を受けているうちに城前校での憎しみは消えていた。素晴らしい先生で受験勉強などでもお世話になった。

戦後教育発祥の地
     (写真 城前小学校の敷地内にて)

12. 城前初等学校から宮森初等学校へ

(1)石川市城前小学校の沿革誌によれば

 城前小学校の沿革史を見ると、 昭和20年6月1日から学校分離までの職員数を見ると、約80名の職員が発令されている。沖縄戦が終わるのが6月23日だから、沖縄戦が終わらないうちから教育を始めたのである。まだ砲声轟く中で教育を始めたのである。当然給料など無かった時代である。後で聞いた話によると、山に残っている日本兵が職員を殺しに来ないかとの心配もあったようだ。事実、私が収容所に行ってからも日本兵が山から下りてきて米兵に撃たれた事がある。未明銃声がしていたが、朝現場に行ったら、兵隊が撃たれていたとの事であった。私は銃声は聞いたが撃たれた兵隊を見に行かなかった。他の難民収容所では山から下りてきた日本兵に住民が拉致され、殺害されたとの話もある。当時の先生方には大いに感謝し敬服するものである。



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