5. 昭和20年地上戦はじまる
(1) 敵機の飛来激しくなる
昭和20年年明けと共に何回も警戒警報が発令される日が多くなる。1月12日頃グラマンが超低空で山田の上空を通り過ぎたが、何も無かった。1月22日頃にも同じような事があったが、何処にも被害があったと言う事は聞いていない。
その頃兵隊はすべて島尻の方へ移動していた。兵隊を見送る人たちは皆泣いていた。
6.4月1日米軍上陸
(1) 父が整備してくれた防空壕 チビチリジャクの自然洞窟
親戚の人々と洞窟を整備、床を敷いたり草を敷いたりで空襲時に かくれたり寝泊りが出来るように整備された防空壕(自然洞窟)。
そして、山中に穴を掘り甕を埋めて米を蓄える(見つからないように)3~4箇所。この事は米軍上陸後の食料を満たして余るほどであった。
(2) 3月23日から上陸のための本格的な空襲と艦砲射撃始まる
その頃から家の裏の防空壕ではなく、チビチリジャクの洞窟に避難するようになる。そこは空襲や砲撃を避けるためで、夜は近くに作られた避難小屋で食事や寝泊りが出来た。家族を含めて40~50名位はいただろうか?
(3) 父との別れ
昭和20年3月30日か31日父が洞窟にやって来た、おそらく家族との最後の別れと、安全確認の為だろう。そして一番大事なことを言う為に。「アメリカは女、子ども、年寄りは大事にする国だから、もし見つかっても抵抗したり逃げたりしてはいけない。手を上げて壕からでるように、逃げたら撃たれる」母に強く言い聞かせていた。その深夜父は飛行場に帰って行った。母は村外れまで見送りに行ったがどんなに辛かっただろう。それを思うと今でも涙する事がある。それが父との最後の別れとなった。
(4) 神風特攻機が来る
読谷岳山頂には日本軍の電波探知機が置かれていた。敵機はよくそこを攻撃していた。機銃掃射の度に我々の避難小屋や洞窟の上に機関砲の薬莢がパラパラと落ちてきた。しかし、4月にはいってからは逆に日本の特攻機が攻撃することもあった。4月、5月になると特攻機がくるようになった。何故か見えるのはいつも2~3機である。それでも、海上の船は大騒動である。大砲を撃ちながらじぐざぐに航行し中には黒煙と真っ赤な炎を出している船も見られた。我々は山の上で見ていて手を叩いて喜んだものである。しかし、何回もあった訳ではない。2~3回あっただろうか。また、夜中に偵察機であろうか、数十本の探照燈に照らされて上空を日本機が飛んでいる。沖縄本島や艦船の全ての高射砲が飛行機に向かって撃たれている。中には全然関係の無い所に飛んでいく砲弾もかなりある。「下手糞!」飛行機に当たる様子はない。 しかし、その後が危ない。高射砲の破裂した破片が唸りを上げて落ちてくるのである。急いで洞窟か避難小屋に隠れないと大変である。私の友達は「危ない!」と一歩前に避けたら、グサッとすぐ後ろの地面に突き刺さり難を逃れたとの事であった。
(5) 最初の犠牲者
3月31日多分最後の空襲である。電波探知機の山頂から谷底へ米軍機が機銃掃射をしながら通り過ぎた。その時どうしたことか、日本の兵隊が一人撃たれて死んだ。また、馬も山田城跡で打たれたのか、驚いて落ちたのか兵隊の近くで死んだ。山田における最初の犠牲者である。でも誰も片付けたり埋葬したりする人は居なかった。それ以後この谷(フチサ)で何名かの人が射殺される事になる。米軍上陸後山探しの米兵は、日本兵と馬の死臭で近よれない所を、通りながら毎日銃を撃ち込んでいた。よっぽど憎かったのか・・・・。
(写真 沖縄県公文書より 【沖縄県沿岸】)
(6) 米軍との出会い
当時米軍に付いての情報は、米人は山が歩けない、夜は目が見えないである。しかし、4月1日か2日お昼頃だったと思うが、山の頂上(電波探知機)から沢山の人が降りてくる。よく見ると日本の兵隊の軍服と違うようだ。そして避難小屋の後ろあたりの畠(ウングヮの畠)で休憩をしている。言葉が全然判らない。「アメリカーだ!」身を潜めて様子を伺っていた老人が洞窟に飛び込んで知らせた。みなの驚き言葉も出ない。暫らくして、誰かが「早く何処かへ逃げよう」とか「手榴弾で自殺しよう」とか、色々話があったが、母は落ち着いていた。父の言葉を信じていたからである。父の言葉を伝えたら皆は少し落ち着いたようで洞窟の中でじっとしていた。幸いその日は避難小屋も洞窟も見つからずに事なきを得た。
(写真 沖縄県公文書より 【沖縄上空を飛ぶ米軍観測機】)
それから何日か過ぎて、避難小屋でそれぞれの生活をしていたら、いきなり4人の米兵がやって来た。逃げる暇など無かった。しかし、米兵は優しかった。子どもたちにお菓子をあげたり、写真を出していとこの娘が自分の娘と似ているなど、すごく優しい振る舞いに皆は安堵した。お菓子など食物は毒が入っている疑いがあったため、最初誰も食べなかったが、米兵は自分で食べて見せて子どもに与えた。それからは、色々もらって食べたが、チーズだけは糞の匂いがすると言うことで皆食べなかった。だんだん警戒心が解けて、母などは女学校時代に習ったうる覚えの英語で、チョコレートなどをねだって我々に与えた。米兵はすごく上機嫌で帰っていった。そんな事が2~3回あったが、2回目に来たときは山で飼っていた鶏を高い値段で買って行った。皆は喜んだが、私は面白くなかった。それは、父が可愛がっていた闘鶏用のシャモで、私自身自慢の鶏であったから。
米軍はそのように優しかったが、しかしその何日か後別のところにいた避難民の家族が、何処かに連れて行かれたとの噂がたち、我々も警戒心が強くなった。それで、監視を強化することになり、私と従兄がその役目を負わされた。
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