④ 収容所のようす
収容所もひどいところでした。結局,私たちがこんなたくさん行ったんですが,そのテント一人分の中にたくさんの人が入れられて,夜寝ると足が出るんですよ,テントの外に。雨が降ると足が濡れるわけですね。
そして,私たちだけじゃなく,そこにはたくさんの人が集められておって,そして焼け残った家もあったんです。その焼け残った家にも全部,その主じゃなくして,みんな避難民が押し込められた。それから,動物小屋,牛小屋,馬小屋とか,山羊小屋,そういったところに,みんな入れられていました。
そして,そのときですね,ちょうどマラリアというのがあるんですね。マラリアというのは,八重山でマラリアがあったという話は聞いたことはあるんですが,初めてだったんですが,そこへ行って。
そうすると,このマラリアっていう病気は,最初寒いんですよ。ブルブル震えるんですよ。もう寒い寒い。そうして上から毛布やいろんなものをかぶせても,それでも震えているんです。そして,その後,高熱が出るんですね。これが一日越しに出るのがあるし,毎日出るのが,そういう状態で続くこともあるし。
ところが,やっぱり食料とか,そういったものが不足しているんで,みんな体力が弱っています。するとボンボン亡くなっていくわけですね。特に子どもはうんと亡くなっていく。おじいちゃん,おじいちゃんも。毎日のように人が担がれて行く。そして,その石川の村はずれの山の中に埋められているんですね。
それともう一つは,私が感じたことは,「なんで,こんな死ぬんだろう」と。そして,たくさんの人が集まっているので,今度,同じ沖縄の人でも言葉が違うんですよ,言葉がね。違う方言で話しているのと,向こうの方言で話しているのがわかんないですよ。要するに,あっちこっちから来ていますから。「あれ? 言葉ってあんなにあれなんだ」と。昔は小禄言葉だとかね,糸満言葉だとか言って笑ったりしたんですが,もっともっとひどいものでした。言葉が違うということと,たくさんの人が死んだなということ。
それと私は目の病気,トラコーマというのがあったんですね。要するに砂地だからゴミが多い,ほこりが多い。それで目の病気に罹った。これもたくさんいました。そのころには,もう既に小さなテントを張って,そこにアメリカのお医者さんがおって,日本の看護婦さんがたくさんおって治療していました。いろいろな治療。私は毎日そこに通って目を治してもらったんですが,そういうような状態でした。
とにかく食事も大変でした。すごい。そのころから私の残飯あさりが始まります。ちり捨て場に行って,残飯をこぼすところから取ってきて食べたりね。そんなひどいところでした。
その代わり,私たちと一緒に捕まった,一緒に出て行った,そのお兄ちゃん,私より5歳も年上ですから,その人,年を聞かれると,嘘をつくわけにいかんから,向こうでは。結局,本当の年を言ったら,この人たち,要するに,こういった人たちは,全部,また石川のなかでも,さらに金網を張られて厳重な監獄みたいなところに,みんな入れられたんです。われわれは自由でしたけれどもね。彼らは,またまた,そこで拘束されたということがありました。